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Clik here to view.生まれは、旧沢口村、脇神という数十個の集落である。が、生後40日くらいで、父の仕事の都合で、青森県、大鰐町に一家で移住した。今も昔も温泉町で知られているが、そこで、「下駄屋」の店を出して生計を立てていた。その街には小学一年生迄暮らし、また、元の沢口村に戻ったのであるが、温泉町は、どこもそうだが、道幅が狭く、家々は軒がくっつきそうに並んでいた。夜にでもなると街灯などはなく、町とは言えど、真っ暗な道だった。その頃、夜の9時頃になると、毎夜の如く、老婆が町をめぐり歩いた、提灯を片手に、暗い夜道を、老婆は、低い、唸るような声を発して、練り歩いた。『あぶり出し、八卦、つづら』『あぶり出し、八卦、つづら』、この言葉を、繰り返しながら、練り歩いた。自分がまだ5・6歳の頃で、それが、非常に不気味で、怖ろしかった。父に聞くと、「物売り」だと言う。「あぶり出し」というのは、白い紙にろうで文字を書き、それを買った人が火にあぶって隠された、文字を浮かび上がらせるのだそうである、そこには、吉、狂など、いずれかの短文が書かれていて、それを買ったひとは夫々に一喜一憂するのだそうである。要するに、占いである。同様に、「八卦」の古くから日本に伝わる。占いである。「つづら」とはつづら織の籠のようなもので、これも販売目的で、背中に担いで歩いている。腰の曲がった老婆が、提灯を片手に、つづら籠を背負い、温泉街の狭い道をそうして毎夜の如く練り歩くのである、その、不気味さは、子供の心に痛く突き刺さった。ドス効いた低い声、は家々に響き渡った。自分は、ひどく恐れ、しかし、好奇心もあり、一度だけ窓からその姿を覗いたことがある。その異様な、様を、今尚忘れることが出来ない。『八卦』とは占いである、何か悩み事、困りごとのある人から、話しを聞き、占いで回答を与えるものである。また、「つづら」とは、つづら織の籠の意味だけでなく、それは、「つづらご」に関連する言葉だと、昔、懇意にしていただいた、元、校長先生の説明であった。つづらご、は、怖ろしい病気であったらしい、とすれば、あの老婆は、その病気治癒の祈祷もしていたのだろうか。・・・
『八卦坂』。現在、自分が住んでる集落に「八卦坂」という坂道がある。街へ出る時は、山道を通らない限り、必ず、この八卦坂を通らねばならない。その八卦坂のすぐ上に一軒の家がある。その家を村人たちは、「八卦の家」と呼んでいた。要するにその家は、代々、「八卦」を生業としていたようなのである。もちろん、そのようなことは当の昔に廃れていたが、村人の中に、深く根付いていた。・・・・・
問題はここからである。その八卦の家に、同級生がいた。成績優秀で、親友でもあった。自分も秋田市で勤務していた時、よく、共に飲み歩いたものだったが、彼に妹がいて、看護師をしていたが、この子も頭の良い子であった。ある時、彼の母親が、娘を「嫁に貰って欲しい」と私の母に頼みこんできたことがあった。私の母は、いい返事を与えなかった。その理由は明らかだった。まず、「八卦の家」と呼ばれていたことへのこだわりと、もう一つは、「精神病者」の出ていた家系であったからでもあったろう。実際、かの家の長女は、東京の有名大学を卒業していたが、何故か仕事も、結婚もせず、その頃の言葉で言えば「ノイローゼ」になっていた。結局、自死を遂げた。そのような事情から、私の母は、彼の母の申し出を断ったのだと思うが、そのことは随分後迄、私には知らされなかった。もし、私にすぐに知らされていたら、私は、彼女を拒むことはなかったであろう、と今でも思っている。彼女は、それから、沖縄の方へ旅立ったと聞いている。母親の葬儀の時、帰郷したらしいが、会うことはなかった。そんなことがあって、かつては親友同士であったのに、彼とは、結局疎遠になってしまった。神のめぐりあわせか、彼が、亡くなる前に、珍しく家をを尋ねて来たことがある。ゆっくり話あうこともできない立ち話で終わってしまったが、あの時が、彼を見た最後だった。
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