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3月3日(月):カノッサの屈辱

 

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カノッサの屈辱」については、中世初期の教会史に度々現れる言葉であるが、詳細については、あまり興味をいだくことはなかったが、ユー・チューブで動画を何本か観てようやく、その概要が分かるようになった。ただし、動画は、様々な人がそれなりの考え方でまとめており、細部の、微妙な見解は一致していないところもある。結局、ブログにまとめるには、動画だけでは、まとめきれないので、ウィキペディアを参考にすることにする。動画と違い平面的過ぎる解説になるが、この事件は、どうしても取り上げ、残しておきたい。・・・・

そもそも、この事件は聖職者の叙任権(任命権)をめぐってローマ教皇グレゴリュス7世と対立していたローマ王ハインリッヒ4世が、1077年1月25日から3日間に及んで雪の降る中、カノッサ城門にて裸足のまま断食と祈りをつづけ、教皇に破門の解除と赦しを請うた事件である。結果、グレゴリュス7世はハインリッヒ4世の破門を解いた。以上が簡単にまとめた、事件のあらましであるが、もう少し詳細に見ていこう。

事件の概要・・・ハインリッヒ4世は北イタリヤにおける影響力を増すために、自分の子がいの司祭たちをミラノ大司教、フェルモやスポレートの司教などに次々に任命した。教皇は司教の任命権が君主ではなく教会にある事を通達し、対立司教の擁立中止を求めたが、ハインリッヒ4世は聞き入れなかった。(これを叙任権闘争という)。グレゴリュウス7世が皇帝の破門と皇帝権の剥奪をほのめかしたため、ハイリッヒ4世は激怒し、1076年1月に独自の教会会議を開いて教皇の廃位を宣言した。ここに至って教皇も1076年2月にハインリッヒ4世を(教会)からの破門と王位の剥奪を宣言した。・・・・・・・・

かねてよりハイリッヒ4世への敵対意識が強かったザクセン公はじめドイツの諸侯たちは、これを好機とばかりハイリッヒ4世に反旗を昼がした。1077年2月2日までに波紋が解かれない場合にはアウグスブルグにおいて会議を開いて新しいローマ王をけ目ることを決定した、権威の付与者にして仲裁者として教皇を会議へ招聘した。諸侯はハイリッヒ4世が教皇に謝罪しなければ後継王が決まらずとも王位を空位とみなすことも決議した。ここに至ってハインリッヒ4世は完全に手詰まりとなり、教皇使節を送って赦しを乞うた。教皇がこれを拒絶したため、皇帝は自ら教皇に謝罪することになった。・・・・・・・

ハイリッヒ4世は教皇アウグスブルグでの会議に参加する前に贖罪するために、北イタリヤに向かった。そこで会議に向か合う途中の教皇が、トスカーナ女伯マティルデの居城カノッサ城に滞在していることを知った。・・・・・・

1077年1月、突然現れたハインリッヒ4世に教皇は戸惑い、捕縛を恐れて城から出ようとしなかった。ハイリッヒ4世は、武器をすべて置き、修道士の服装に身をつつんで城の前で教皇に赦しを求めた。(それが、雪の降りしきる中、素足のまま、三日間も続いた。ハインリッヒ4世は、ひたすら、赦しを求め続けたのである。三日目に、教皇カノッサの城から出て、彼に赦しを与えた・・・・・

ハインリッヒ4世はドイツに戻ると直ちに反対派の諸侯を制圧し王権を確立した。その後、再び叙任権をめぐって両者は争うが、今度はハイリッヒ4世が軍勢を率いてイタリヤに乗り込みローマを包囲した。教皇は辛くも包囲を脱出し、1085年イタリヤ南部のサレルノで客死した。叙任権闘争は、叙任権が教皇にあることを定めたブォルムス協約が成立する1122年まで続いた。こうして、教会の司祭を任命できるのは、誰かという、争いは幕を閉じることになるのだが。それは、紛れもなく、権力闘争であった。

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