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2月16日(日):チボー家の人々

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ロジェ・マルタン・デュ・ガール。(1881~1958)は、代々裁判官、判事を職とする家系に生まれた。父は、パリ市初審裁判所の代訴人だった。後年、彼の小説にも見られる精密な史実と構成力は、この家系が産んだものと言えるかも知れない。ソルボンヌ大学文学部からパリ古文書学院に学び、卒業論文にジュミエージ修道院遺跡についっての考古学的論文を書き、優秀な成績だった。最初の長編小説「生成」のあと、フランス中を揺るがしたドレフュス事件を背景にした大作、「ジャン・バロワ」を書いたが、出版社にこれは小説ではない、調査資料だと断られた。結局、アンドレ・ジイドの推薦で出版され、第一次大戦直前の青年たちの大きな共感を得た。彼は大戦と同時に動員され、講和条約終結まで戦争を体験した。・・・・・・

その翌年1920年から39年まで、19年を費やして創作された「チボー家の人々」は、彼の戦争体験が熟し、発酵し、結晶したものである。この8部11巻の大作は、「1918年十月30日衛戍(えいじゅ)病院において、死は、きみが至純にして悩める心のなかに熟しつつあった逞しい作品をこぼち去った」友人に捧げられている。・・・・・・

第二次大戦中は、ドイツ軍のブラックリストに載せられため、フランス国内を転々と居を移した。その間、次の大作「モーモール大佐の回想」の執筆にかかったが、健康がすぐれず、この作品を未完成にしたまま、1958年8月22日、心筋炎発作で死んだ。彼は晩年の改装で「いくたびとなく「戦争と平和」を読み返しながら、決定的に小説を書こうと決心した」。と作家になった動機を述べている。「チボー家の人々」という大河小説もまた、トルストイの「戦争と平和」の強い影響を受けて、書かれたものだ。ここに書かれているのは、第一次大戦を境に、19世紀から20世紀への転換する歴史の中での、一群のフランス人たちの運命である。・・・・・・

カトリックのチボー家とプロテスタントのフオアンタナン家、その中で成長する若者たちーーーチボー家の激情的なジャックとプロテスタントのフォンタナン家、その中で成長する若者たち、ジャックと自制的な兄、アントワースという兄弟の性格対比を軸にして、物語は展開される。また、第7部「1914年の夏」は、彼一流の資料を駆使し、革命と戦争の間で激動する歴史のひげきを捕らえた圧巻である。この部分に対して1937年ノーベル文学賞(平和賞?)。が与えられた。この小説が、文学好きの人達に読まれるだけでなく、今も広く若い人に愛読されているのは、その持つ、強烈なヒューマニズムのためだと思われる。・・・・・文中引用した山内義雄氏は1938年(昭和13年)に初めて紹介されたが、戦争中は、「1914年の夏」の部分は出版をきんじられ、1952年に初めて完結した。その名訳の評価は高い。・・・・・

以上は、深代惇郎氏のエッセイ集の収められている文章であるが、実にこの、「チボー家に人々」は、私にとっても意義深い作品であった。今も、書斎に「チボー家に人々」全巻が揃っている。裏書には。「s42,7月15、仙台」とある。丁度私が、学院大学に入学した頃である。当時は、反戦運動が盛んな時代であった。自衛官であった頃でもあり、反戦運動や、学園紛争があった時代である、なにやらややこしい時代でもあった。この小説に感化を受けて、自衛官でありながら、なお、反戦平和の気分に浸っていたようである。私が、自衛隊を退職したのも、多分、少しは、「1914年の夏」が影響しているかもしれない。私の専攻は、「労働経済学」である。その講義を担当していたのが「森健」という、助教授であった。3年時から、ゼミが始まる。彼の講義は評判が良かったので、数人の募集に、数倍の応募があった。大学に入るより、森健のゼミに入る方がむつかしい状態であった。面接があって。「君の最も影響を受けた本は何か?」と聞かれたので、「チボー家の人々」です。と答えたら、一発で、その難関を突破し、二年間、ずーっとお世話になった。・・・という。思い出、エピソードがある。

 

 


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