Quantcast
Channel: イミタチオ・クリスティ
Viewing all articles
Browse latest Browse all 103

2月12日(水):マルタとマリヤ

$
0
0

さて、彼らが旅を続けているうち、イエスがある村に入られると、マルタという女が喜んで家にお迎えした。彼女にはマリヤと言う妹がいたが、主の足もとにすわって、みことばに聞き入っていた。ところが、マルタは、いろいろともてなしのために気が落ち着かず、みもとに来て言った。「主よ。妹が私だけにおもてなしをさせるのを、何ともお思いにならないのでしょうか。私の手伝いをする世王に、妹に仰ってください」。主は答えて言われた。「マルタ、マルタ。あなたはいろいろなことに心配して、気を使っています。しかし、どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけです。マリヤはその良いほうを選んだのです。彼女からそれを取り上げてはいけません。」

               (ルカの福音書10章38節~42節)

以上が、2月9日の聖日礼拝の、説教主題と聖書箇所です。この箇所は、特にむつかしい事が含まれていないので、聖書箇所そのままに記された出来事を理解すればいのであるが、説教をそれでおしまいというわけにはいかず、同時に参考にすべき箇所を少し説明した。それはヨハネ福音書、いわゆる最後の晩餐の場面での出来事である。・・

「人々はイエスのために、そこに晩餐を用意した。そしてマルタは給仕していた。ラザロは、イエスとともに食卓に着いている人々の中に混じっていた。マリヤは、非常に高価な、純粋なナルドの香油300グラムを取って、イエスの足に塗り、彼女の髪の毛でイエスの足をぬぐった。家は香油のかおりでいっぱいになった。・・・ところが弟子の一人ユダが、一見無駄遣いと思われる行為を非難し始めた、そこでイエスが言われた。『そのままにしておきなさい。マリヤはわたしの葬りの日のために、それを取っておこうとしたのです』。・・・・・・このイエスのお言葉から察すると、マリヤは、すでにイエスの苦難と十字架への道を知っていたように思われる、12弟子と他の誰もそのことは、何度もイエスの言葉を聞いてはいたが、理解していなかったようである。そのことは、マタイの福音書、16章21節から、23節まで読めばわかる。イエスエルサレム、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺される」と言った時、ペテロはすかさずそれを否定し「そんなことが、あなたに起こるはずがありません」といさめるような口調で語った。イエスは振り返って、ペテロに言われた『下がれ。サタン。あなたはわたしの邪魔をするものだ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている』。・・・・・・・・・

以上の事柄から、マリヤは、既に、ドロローサ、ゴルゴタへの道を察しており、2年、ないし3面ににもわたって弟子であった、12弟子や他の弟子たちも、ほとんどそのことを理解していなかったようで、(私には)思われる。その違いはどこにあったのか。マルタとマリヤの家での小さな出来事に由来しているのだろう。ひたすら、イエスの足もとにひざまづいて、みことばを聞いていたものと、久しぶりのベタニヤのマルタの家で羽を伸ばしていた者たちの違いであろう・・・・

遠い昔に、同じことを経験したことがある。まだ、ルーテル教会に所属していた時のことである。森山諭師をお迎えして特別伝道会をしたときであった。伝道会を終え、午後は、慰労のために、近くの温泉へ信徒十数人で御招待をした。温泉宿に着くと、牧師、信徒は大はしゃぎだった。森山先生の、慰労の目的をすっかり忘れ、それぞれ思い思いのことをしていた、肝心の牧師は、信徒を呼び寄せ、将棋の真最中、あとは、おしてしるべし、である。将棋も、囲碁も、卓球も出来ないわたしは、ポツンと一人、床の間を背にして座っていた先生の所へ行ってみた、すると、先生はこういわれた「なんと言う、霊的レベルの低い教会であろうか」。それもそのはず、わざわざ、東京から、自分を呼び寄せておいて、学ぼうとせず、あそび惚けていると、思われたのである。この出来事は、まさに、「マルタとマリヤ」のできごとそっくりなのである。

やれ、やれ、やっと。pr0復帰した。これから、広告に悩まされることもなくなった。あの、広告が不愉快で、まともな記事を書く気になれずにいた。


Viewing all articles
Browse latest Browse all 103

Trending Articles



<script src="https://jsc.adskeeper.com/r/s/rssing.com.1596347.js" async> </script>